tana1026のブログ

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ペルー日本人移民の真心が世界遺産マチュピチュをうむ!



空雪姫:(A) 王子:(B)


(A)

王子、今回はある日本人移民の偉業のお話なのだけれど、その前に、そもそも海外移民というのは、ハワイやブラジル移民が有名であると聞いていたのですが本当のところはどうなのかしら?


(B)

はい、確かにイメージ的にはそう感じている方が多いのは事実であります。

何せ、1868年に横浜在住のアメリカ商人マージン・バンリードが148人の日本人をハワイの砂糖プランテーションに出稼ぎ労働者として、これが海外移民の始まりと言われますように、今となっては古い歴史の中にある現代の私たちには無理はありません。

日本人移民を一言で言ってしまえば、それはそれは想像を絶する苦労があったということを頭に入れておいて下さい。


(A)

王子、私には想像すらできないわ!


(B)

それに、日本人移民の歴史は排日の歴史と言ってもいいほど、日本人は排除を受ける度に移住先を変えていかなければならないものであったようです。


(A)

え~、私たちの先輩の皆さんは、生きるだけでもそんなに苦労があったなんて…

信じられない、今の私たちは本当に幸せ者なのね。


(B)

空雪姫、前置きはこれくらいにして、今回は、ペルーの観光立国の基礎を築きあげたと言ってもいい日本人移民の偉業をご紹介いたします。





南米ペルーのマチュピチュの発展に生涯を捧げたある日本人移民のお話から…。


空中都市のマチュピチュは、アンデス山脈にたたずむ南米ペルーの世界遺産として、今や、一度は訪れてみたいという観光スポットのひとつになっていますが…

このマチュピチュは、インカ帝国の遺跡として1911年にアメリカの考古学者ハイラム・ビンガムに発見されたものの、その後は長い間秘密のベールにとだされたままでした。

その当時のマチュピチュは、その存在すら知られない秘境にあるジャングルで、少数の民族のみが暮らす小さな集落で全く無名であったところでした。


しかし、幻想的なマチュピチュ遺跡の魅力を誰よりも早く見抜き、水路やダム建設、発電所を建設し電気をもたらし、ホテルや学校の建設等からマチュピチュ遺跡を世界遺産までに仕立て地元住民の雇用を生み、ペルー観光の発展に大きく貢献した、

そんなマチュピチュ村を創り上げ、生涯を村の発展に捧げた一人の日本人、その名は野地与吉という。

1859年に福島県安達郡大玉村生まれ、

何不自由のない裕福な農家の生まれながらもゴム景気に乗った南米で成功したい夢を胸に家族の反対を押し切った与吉は、1917年、21歳の若さで日本人移民としてペルーに渡りました。

日本人が移住を本格的に始めたのが約120年前、今ではペルーに約10万の日系人が暮らしいるが、当時の移民のほとんどは、貧しい農家の二男、三男であったとか。

とにかく豊かな農地で豊かな生活を求めての移民のはずが、実際に与えられた土地というのは、豊かさを忘れさせてしまうような不毛の土地、移民たちに待ち受けていたものは想像を絶する厳しい生活、苦労なんて言える間はまだましな時であったという。

その土地は岩山であったり、大木で太い根っこが張る、まさに農地として全く役立たない土地の開拓から始めるほかにない…

そんな過酷な労働に耐えきれず、土地を捨て帰国した移民も多くいたとか。

なかには帰国するにも帰りの船賃を持たない移民たち、あまりの苦しさから家族全員で農薬を飲んで自殺した移民もいたほどでした。


まさに、ここは地獄の一丁目と、移民たちが作詞した歌が生まれほどでした。


そんな過酷な労働で、契約内容と全く違うことを知った与吉は僅か1年ほどでやめてしまった。

与吉はブラジル、アメリカに、ボリビアと放浪生活をするが、1923年には神様から導かれるように再びペルーに戻った。

持ち前の技術力を買われ、ペルー国鉄の

クスコーサンタ・アナ線に勤務、ここでは

電車の運転や路線拡大工事に携わる。

そんな与吉の奮闘で1929年には、クスコと

マチュピチュ区間の路線が完成する。


その前年には、マリア・ボルティージョという現地の女性と結婚した与吉、マチュピチュに住居を構えることになる。

この地では、与吉の人生の第一の転機となるマチュピチュの村人から真心を受けている。

全く縁もゆかりもない現地の村人は与吉一家を家族のように迎え入れ、しかも食料不足の中でも心良く食料を分け与えてくれたことに何より嬉しかったことか。

当時、ペルーは独立国と言え、スペインの支配下にあった。

階級意識は高く、特にインカの子孫は差別を受け、日本人移民たちも当然ながら最下層扱いで差別されていたことから仲間意識が生まれと考える。

そんな真心を受けた与吉は、今度は自分がこの地に恩返しをする番と考えた。

もともと手先の器用な与吉は、村の工事に役立つさまざま工具類を製造し、村人たちと川から水を通し農業生産を増やすためにダム建設し、発電所まで建設し電気までも村にもたらした。

ある時に与吉が木の伐採中に温泉を発見し、更なる村の発展を考えた与吉は、マチュピチュ遺跡と温泉で観光客向けのホテルを1935年に建設。

木造3階建て21部屋もあるホテルで、その

名を「ホテル・ノウチ」と言う。

宿泊施設ははじめ、館内には郵便局や裁判所、村長室などを兼ね備えた街のインフラ整備にも力を入れ、マチュピチュの基礎を築いています。

このホテルを中心に村全体が発展することで村人に雇用を生み与吉の尽力に、全ての村人から感謝される。

53歳になった与吉は、1941年から2年間マチュピチュ村の村長に…

時に、世界情勢は大きく変動する。1941年に第二次世界大戦が勃発する。

その影響がペルーにも及び、日本人移民は敵国人として厳しい迫害の中で日本人移民は混乱の渦の中に…。

次々と連合軍に捕まえられ強制収容所に強制収容される中でも…

全ての村人が一致団結する。

与吉をかくまい、村人全員が命がけで憲兵から守りきるほど信頼を得ていたという。

まさに与吉の真心は村人に浸透し、与吉は村人全ての神様的な存在であったようです。

次に与吉に第二の転機が訪れたのは、1958年に三笠宮さまがマチュピチュ遺跡をご訪問されました。

その際に与吉さんの娘さんが花束を贈呈したという新聞記事を日本にいた与吉さんのご親族が知り、それがご縁で1968年、半世紀ぶりに故郷の福島へ帰郷することになりました。

日本とペルーの橋渡しをされたのは三笠宮さまです。当時の日本では与吉を「現代の浦島太郎」と話題になったそうです。


その後、与吉さんは御親族の日本帰りの希望を断り、ペルーに戻りました。

そして、その僅か2カ月後の1969年8月29日にペルーの御家族や村人に見守られながら静かに生涯を終えられました。


マチュピチュ村を開拓し、マチュピチュ遺跡を世界的に有名にした日本人移民の野

内与吉さんは、意外にも世界的に知られていないのが本当に残念です。


(B)

空雪姫、野内与吉さんがいなければ、もしかしたら今のマチュピチュ遺跡の存在は明らかにされなかったかもしれません。

あの世界遺産マチュピチュではなく、野地与吉さんご自身が世界遺産と言えましょう。


(A)

そうね、野地与吉さんがペルーに移民として渡航しなければ、また三笠宮さまがマチュピチュをご訪問されなければ、今のあの世界遺産マチュピチュはありません。


(B)

はい、その通りでございます。まさに、野地与吉さんの真心が神様を動かしたと言ってもいいでしょう!


(A)

王子、素晴らしいお話有難うございました



「2015年に与吉さんの故郷である福島県大玉村とマチュピチュ村は友好都市協定を結びました。」